祈年祭
祈年祭とは
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- 2009-02-11T18:01:10+09:00
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祈年祭とは、「としごいのまつり」と読み、毎年2月に行われる一年の五穀豊穣などを祈る神道の祭祀で、11月の新嘗祭と対になる祭祀。「神祗令義解」には、謂ふ、祈は猶ほ祷の如し、歳災作らず、時令を順度ならしめむと欲して、即ち神祗官に於て祭る、故に祈年と曰ふ、
と記されている。班幣を重視した祭祀で、六月・十二月の次祭や十一月の新嘗祭とともに重要な国家的祭祀であった。明治の改暦前は、旧暦の2月4日に行われていたが、改暦後は2月17日に行われるようになった。ただし、実施日が特に統一されているわけではなく、北国には3月や4月の春祭りと併せて行う神社もある。
『古語拾遣』で祈年祭の起源について、大地主神が御歳神の祟りを恐れて、穀物の豊饒を祈った話を伝えている。古来より日本は稲作を中心とした農耕生活を基盤に成立しており、五穀の豊かな稔りを神祗に願う儀礼が律令国家の確立とともに制度化したと考えられている。7世紀後半の天武天皇の時代にはすでに行われていた記録があり、日本古来の春の農耕儀礼に支那の大祀祈殻の要素を取り入れたものと考えられている。延喜四時祭式によると、当初は神名帳記載の全ての神社(3132座:2861社)が祈願の対象であった。平安時代初期には祭儀が形骸化し、神祗官の内部でのみ行われる祭祀となった。桓武天皇の延暦17(798)年には、それまで総て神祗官が直接幣帛を班っていたものを、従来どおり神祗官が直接班つ神社(官幣社)と、神祗官に代って国司が班つ神社(国幣社)とに分別された。平安時代中頃になると、天照大御神を主に祀る祭祀であると認識が変化しはじめ、院政期にはその傾向がさらに強くなり、祈年祭は天照大御神を奉祀する天皇の祭祀として厳修されるようになった。13世紀初め、鎌倉時代初頭の順徳天皇の『禁秘抄』では、祈年祭は伊勢神宮関係の祭祀であると明記されている。
室町時代後半の戦乱期には、他の祭祀と同様に宮中での祈年祭も廃絶し、神祗官の伯を世襲してきた白川家が行うようになった。江戸時代に入り、元禄年間に宮中での祈年祭の復興が企画されたが為らず、明治時代の神祗官復興に至ってようやく再開された。旧制に倣って2月4日に班幣式、同17日に宮中三殿にて天皇の御親拝のある祭典を行うとともに、神宮に勅使を遣わして大祭による祭典を執行、官国幣社以下全国の神社においても、幣帛供進使が参向して大祭による祭典が行われた。第二次世界大戦後に日本の国家神道が解体されると、祈年祭から国家的祭祀としての性格は消え、宮中では天皇家の私的な祭祀として、他の神社でも通常の祭祀の一つとして斎行している。
祈年祭の祝詞
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延喜式祝詞の祈年祭祝詞は、神祗官における祈年祭班幣式に際し、全国から参集した諸社の神主や祝部等を前にして、中臣氏が天社・国社の神々の前に奏するものである。また、幣帛を受けて帰国した神主などに対し、それぞれが奉仕する神々にも祭儀を執り行うようにと読み聞かせる、宣命体形式の祝詞である。
祈年祭
集侍神主・祝部等諸、聞食登宣、
高天原尓神留坐、皇睦神漏伎命・神漏彌命以、天社國社登稱辭竟奉皇神等能前尓白久、
今年二月尓御年初將賜登爲而、皇御孫命宇豆能幣帛乎、朝日能豐逆登尓稱辭竟奉久登宣、
御年皇神等能前尓白久、皇神等能依左志奉牟奥津御年乎、手肱尓水沫畫垂、向股尓泥畫寄氐取作牟奥津御年乎、八束穂能伊加志穂尓、皇神等能依左志奉者、初穂乎波千穎八百穎尓奉置氐、瓺閉高知、瓺腹滿雙氐、汁尓母穎尓母稱辭竟奉牟、大野原尓生物者、甘菜・辛菜、青海原住物者、鰭能廣物・鰭能狭物、奥津藻葉・邊津藻葉尓至氐尓、御服明妙・照妙・和妙・荒妙尓稱辭竟奉牟、御年皇神能前尓、白馬・白猪・白鶏、種種色物乎備奉氐、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
大御巫能辭竟奉皇神等能前尓白久、神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮乃賣・大御膳都神・辭代主登御名者白而、辭竟奉者、皇御孫命御世乎、手長御世登、堅磐尓常磐尓齋比奉、茂御世尓幸閉奉故、皇吾睦神漏伎命・神漏彌命登、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
座摩乃御巫乃稱辭竟奉皇神等能前尓白久、生井・榮井・津長井・阿須波・婆比支登御名者白氐、辭竟奉者、皇神能敷坐、下都磐根尓宮柱太知立、高天原尓千木高知氐、皇御孫命乃瑞乃御舎乎仕奉氐、天御蔭・日御蔭登隠坐氐、四方國乎安國登平久知食故、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
御門能御巫能稱辭竟奉皇神等能前尓白久、櫛磐間門命・豐磐間門命登御名者白氐、辭竟奉者、四方能御門尓、湯都磐村能如塞坐氐、朝者御門開奉、夕者御門閉奉氐、疎夫留物能自下往者下乎守、自上往者上乎守、夜能守・日能守尓守奉故、皇御孫命能宇豆能幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
生嶋能御巫能辭竟奉皇神等能前尓白久、生國・足國登御名者白氐、辭竟奉者、皇神能敷坐嶋能八十嶋者、谷蟆能狭度極、鹽沫能留限、狭國者廣久、峻國者平久、嶋能八十嶋堕事無、皇神等能依左志奉故、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
辭別、伊勢尓坐天照大御神能大前尓白久、皇神能見霽志坐四方國者、天能壁立極、國能退立限、青雲能靄極、白雲能墜坐向伏限、青海原者棹柁不干、舟艫能至留極、大海尓舟滿都都氣氐、自陸往道者荷緒縛堅氐、磐根・木根履佐久彌氐、馬爪至留限、長道無間久立都都氣氐、狭國者廣久、峻國者平久、遠國者八十綱打挂氐引寄如事、皇大御神能寄奉波、荷前者皇大御神能大前尓、如横山打積置氐、殘乎波平聞看、又皇御孫命御世乎手長御世登、堅磐尓常磐尓齋比奉、茂御世尓幸閉奉故、皇吾睦神漏伎・神漏弥命登、宇事物頚根衝拔氐、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
御縣尓坐皇神等乃前尓白久、高市・葛木・十市・志貴・山邊・曾布登御名者白氐、此六御縣尓生出甘菜・辛菜乎持參來氐、皇御孫命能長御膳能遠御膳登聞食故、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
山口坐皇神等能前尓白久、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無登御名者白氐、遠山・近山尓生立留大木・小木乎、本末打切氐持參來氐、皇御孫命能瑞能御舎仕奉氐、天御蔭・日御蔭登隠坐氐、四方國乎安國登平久知食須我故、皇御孫命能宇豆乃幣帛乎、稱辭竟奉久登宣、
水分坐皇神等能前尓白久、吉野・宇陀・都祁・葛木登御名者白氐、辭竟奉者、皇神等能寄志奉牟奥都御年乎、八束穂能伊加志穂尓寄志奉者、皇神等尓初穂波穎尓母汁尓母、瓺閉高知、瓺腹滿雙氐、稱辭竟奉氐、遺乎波皇御孫命能朝御食・夕御食能加牟加比尓、長御食能遠御食登、赤丹穂尓聞食故、皇御孫命能宇豆乃幣帛、稱辭竟奉久登、諸聞食登宣、
辭別、忌部能弱肩尓太多須支取挂氐、持由麻波利仕奉礼留幣帛乎、神主・祝部等受賜氐、事不過捧持奉登宣、
祈年祭
集はり侍る神主・祝部等諸、聞き食へと宣ふ、
高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏彌命以て、天社・國社と稱へ辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、
今年二月に御年初め賜はむと爲て、皇御孫命の宇豆の幣帛を、朝日の豐逆登に稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
御年皇神等の前に白さく、皇神等の依さし奉らむ奥津御年を、手肱に水沫畫き垂り、向股に泥畫き寄せて取り作らむ奥津御年を、八束穂の伊加志穂に皇神等の依さし奉らば、初穂をば千穎八百穎に奉り置きて、瓺の閉高知り、瓺の腹滿て雙べて、汁にも穎にも稱辭竟へ奉らむ、
大野原に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海原に住む物は、鰭の廣物・鰭の狭物、奥津藻葉・邊津藻葉に至るまでに、
御服は明妙・照妙・和妙・荒妙に稱辭竟へ奉らむ、
御年の皇神の前に、白き馬・白き猪・白き鶏、種種の色物を備へ奉りて、
皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
大御巫の辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、
神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮乃売・大御膳都神・辭代主と御名は白して、辭竟へ奉らくは、
皇御孫命の御世を、手長の御世と、堅磐に常磐に齋ひ奉り、茂し御世に幸へ奉るが故に、
皇吾睦神漏伎命・神漏彌命と、皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
座摩の御巫の稱辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、
生井・榮井・津長井・阿須波・婆比支と御名は白して、辭竟へ奉らくは、
皇神の敷き坐す、下都磐根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御舎を仕へ奉りて、
天御蔭・日御蔭と隠り坐して、四方の國を安國と平けく知食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
御門の御巫の稱辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、櫛磐間門命・豐磐間門命と御名は白して、辭竟へ奉らくは、四方の御門に、湯都磐村の如く塞り坐して、
朝には御門を開き奉り、夕には御門を閉て奉りて、疎夫留物の下より往かば下を守り、上より往かば上を守り、
夜の守り・日の守りに守り奉るが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
生嶋の御巫の辭竟へ奉る皇神等の前に白さく、
生國・足國と御名は白して、辭竟へ奉らくは、皇神の敷き坐す嶋の八十嶋は、谷蟆の狭度る極み、鹽沫の留る限り、
狭き國は廣く、峻しき國は平けく、嶋の八十嶋堕つる事無く、皇神等の依さし奉るが故に、
皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
辭別きて、伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく、皇神の見霽かし坐す四方の國は、天の壁立つ極み、國の退立つ限り、
青雲の靄く極み、白雲の墜り坐向伏す限り、青海原は棹柁干さず、
舟の艫の至り留る極み、大海に舟滿ち都都氣て、陸より往く道は荷の緒縛ひ堅めて、
磐根・木根履み佐久彌て、馬の爪の至り留る限り、長道間無く立ち都都氣て、狭き國は廣く、峻しき國は平けく、
遠き國は八十綱打挂けて引き寄する事の如く、皇大御神の寄さし奉らば、荷前は皇大御神の大前に、
横山の如く打積み置きて、殘をば平けく聞看さむ、又、
皇御孫命の御世を手長の御世と、堅磐に常磐に齋ひ奉り、茂し御世に幸へ奉るが故に、
皇吾睦神漏伎・神漏弥命と、宇事物頚根衝き拔きて、皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
御縣に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山邊・曾布と御名は白して、此の六つの御縣に生ひ出づる甘菜・辛菜を持ち參來て、
皇御孫命の長御膳の遠御膳と聞し食すが故に、
皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名は白して、
遠山・近山に生ひ立てる大木・小木を、本末打切りて持ち參來て、皇御孫命の瑞の御舎仕へ奉りて、
天御蔭・日御蔭と隠り坐して、四方の國を安國と平けく知食すが故に、
皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと宣ふ、
水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して、辭竟へ奉らくは、
皇神等の寄さし奉らむ奥都御年を、八束穂の伊加志穂に寄さし奉らば、
皇神等に初穂は穎にも汁にも、瓺の閉高知り、瓺の腹滿て雙べて、稱辭竟へ奉りて、
遺をば皇御孫命の朝御食・夕御食の加牟加比に、長御食の遠御食と、赤丹穂に聞食すが故に、
皇御孫命の宇豆の幣帛を、稱辭竟へ奉らくと、諸聞き食へと宣ふ、
辭別きて、忌部の弱肩に太多須支取挂けて、持由麻波利仕へ奉れる幣帛を、
神主・祝部等受け賜りて、事過たず捧げ持ちて奉れと宣ふ、
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