第62番札所 天養山宝寿寺
天養山宝寿寺の基本情報
- 最終更新
- 2007-05-21T00:00:00+09:00
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https://www.7key.jp/data/shikoku88/s62_houzyuzi.html#basic
- 正式名称と通称
- 天養山観音院 宝寿寺(てんようざん ほうじゅじ)/通称:-
- 本尊と宗派、開基
- 十一面観世音菩薩 / 高野山真言宗 / 弘法大師
- 真言
- オンマカ キャロニキャ ソワカ
- 御姿
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- 御詠歌
- 唱え奉る 四国霊場 第62番 天養山 宝寿寺 の御詠歌に
- 五月雨のあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かわ(さみだれの あとにいでたる たまのいは しらつぼなるや いちのみやかわ)
- 所在地と電話番号
- 〒799-1101:愛媛県西条市小松町新屋敷甲428(0898-72-2210)
- 前札所と次札所
- 前札所:第61番札所 香園寺(1.5km)/次札所:第63番札所 吉祥寺(1.5km)
- 交通と駐車場
- 徒歩:香園寺→宝寿寺
- 香園寺から徒歩12分、せとうちバス新居浜駅・中萩経由川之江行:小松営業所→小松(1分)、下車後徒歩(50m)
- JR予讃線伊予小松駅下車。徒歩2分。
- 駐車場:無料(5台:境内まですぐ)
- 宿泊
- なし
天養山宝寿寺のその他情報
- 最終更新
- 2007-05-21T00:00:00+09:00
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歴史と謂れ
聖武天皇の勅願により、天平年間に伊予一国一の宮の御法楽所として建立された。この時、聖武天皇は金光明最勝王経を納め、僧道慈を任じて講読させたとされる。当時は金剛宝寺と号していた。弘法大師が大同年間にこの寺へ留錫し、聖武天皇の后である光明皇后にかたどり、十一面観音を刻んで本尊として安置した。その際、寺号を宝寿寺に改めたとされる。弘法大師が留錫しているとき、当時の国司だった越智公の夫人が難産で苦しみ大師に祈祷を頼んだ。大師は境内の玉の井の霊水で加持して夫人に与えると、夫人は玉のような男児を無事に安産したといわれる。夫人は子供に玉澄と命名し、嬉しさのあまり詠んで奉納した歌がご詠歌となり、それ以来このご詠歌を毎日3回唱えると安産すると言われている。それ以来、安産の観音札所として信仰を集め寺は栄えたとされる。ただ、中山川の下流域、白坪に位置したためにたびたび河川の氾濫に遭い、破損と再建を繰り返した。一時は荒廃したが天養年間に再建され、天養山に山号を改めた。その後天正13年(1585年)に、豊臣秀吉の四国攻略の兵火によって堂宇は焼失し荒廃。寛永13年(1636年)四国遍路の行者宥伝上人により再興されたが、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で廃寺となる。だが、明治10年に大石龍遍上人が再建し、現在の地に移された。その時、京都の伏見稲荷、岡山の最上稲荷、愛知の豊川稲荷の三神を護法神として祀り、寺門の興隆、諸人の護世安楽を祈願し建立したといわれる。
堂塔
その他
行事
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その他の情報
- 伊予三島水軍の菩捉寺にもなっていた。
- 観音像の周りにはチシャノキが植えられており、町の天然記念物し指定されている。
- 江戸時代の初期に四国遍路普及に努めた僧、真念の四国霊場の案内書「四国辺路道指南」に、「いにしえは一の宮、かうおんじ、よこみねと順に札納めしかども」とある。このことから、当時と現在では巡る順番が違ったとの説もある。
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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年05月21日 最終更新:2007年05月21日