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https://www.7key.jp/data/shikoku88/s80_kokubunzi.html#basic
https://www.7key.jp/data/shikoku88/s80_kokubunzi.html#other
天平13年(741年)、聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基した国分寺。本尊の千手観音立像も行基作。後に弘法大師が留錫して尊像を補修し、霊場に定めたといわれる。天正年間に長曽我部軍の兵火にかかり堂塔は殆んど焼失したが、本堂と鐘楼は難をまぬがれている。その後、荒廃していた寺を高松藩の生駒氏と松平氏が復興して現在に至る。
仁王門を入ると右に七重塔跡の礎石が残り、現在は石造の七重塔(鎌倉時代)が建っている。その前には、大蛇の伝説や高松城の時鐘の伝説で知られた銅鐘があり、奈良時代の鋳造といわれる。正面の本堂の前は金堂跡。橋を渡ると創建当初の講堂跡に建てられた本堂がある。
鎌倉中期の建築で、重要文化財の指定を受けている。かつての講堂を再建したもので、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。堂内の本尊はケヤキの一木造りで秘仏とされている。高さ5.2mの立像で、裳には牡丹の絵模様や円形の散らし模様が描かれ、顔には髪や毛を墨で描き、唇には朱が施されている。この本尊には「弘治三丁六月二十八日四国中辺路同行二人」「大永八年五月二十日宝石宮島一之浦同行四人南無大師遍照金剛」という落書きがあり、室町時代には既に遍路が行われていた事がうかがえる。また、明治34年に国宝に指定されている。
大師堂は多宝塔形式で、堂内で休憩ができ、千体地蔵が安置され、納経所にもなっている。
銅鐘は日本有数の古鐘で、奈良朝の鋳造と推定されている。昭和16年に国宝に指定された。この鐘には次のような話が伝わっている。慶長年間、高松藩主生駒侯は美しい鍾の音色に魅かれ、田地3000坪をお寺に寄進して銅鐘を城に持って帰ったとされる。ところが城下で鐘をつくと以前の美しい音とは違い「帰りたい、帰りたい」と聞こえた。更にその年、高松の城下に悪い病気が流行り、鐘のたたりを恐れて元の国分寺に返したといわれる。
参道右手の境内には、七重塔の跡があり三十三個の礎石が残されている。この礎石を使い東西28m、南北14mの建物を復元することができる。中央の心礎に、鎌倉時代に建立されたという七重の石塔がある。また、地蔵堂の前にも礎石が十五個あり、これは一片が10mの七重塔が復元できる。
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