第80番札所 白牛山国分寺

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白牛山国分寺 - 四国霊場八十八箇所資料集での納経帳への朱印

白牛山国分寺の基本情報

最終更新
2007-05-21T00:00:00+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/shikoku88/s80_kokubunzi.html#basic
正式名称と通称
白牛山千手院 国分寺(はくぎゅうざん こくぶんじ)/通称:-
本尊と宗派、開基
十一面千手観世音菩薩 / 真言宗御室派 / 行基菩薩
真言
オン バザラ タラマキリク
御姿
白牛山国分寺 - 四国霊場八十八箇所資料集の御姿 本尊のカラーイメージ
御詠歌
唱え奉る 四国霊場 第80番 白牛山 国分寺 の御詠歌に
国を分け 野山をしのぎ 寺々に 詣れる人を 助けましませ(くにをわけ のやまをしのぎ てらでらに まいれるひとを たすけましませ)
所在地と電話番号
〒769-0102:香川県高松市国分寺町国分2065(087-874-0033)
前札所と次札所
前札所:第79番札所 天皇寺(6.8km)/次札所:第81番札所 白峯寺(6.7km)
交通と駐車場
徒歩:・高照院→国道11号線→かもがわ→国分寺
高照院から徒歩5分、琴参バス高松行:西の庄→国分寺駅前(15分)、下車徒歩(500m)
JR予讃線国分寺駅下車。徒歩5分。
駐車場:無料(10台:境内まですぐ)
宿泊
宿坊なし

白牛山国分寺のその他情報

最終更新
2007-05-21T00:00:00+09:00
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歴史と謂れ

天平13年(741年)、聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基した国分寺。本尊の千手観音立像も行基作。後に弘法大師が留錫して尊像を補修し、霊場に定めたといわれる。天正年間に長曽我部軍の兵火にかかり堂塔は殆んど焼失したが、本堂と鐘楼は難をまぬがれている。その後、荒廃していた寺を高松藩の生駒氏と松平氏が復興して現在に至る。

堂塔

国分寺の仁王門

仁王門を入ると右に七重塔跡の礎石が残り、現在は石造の七重塔(鎌倉時代)が建っている。その前には、大蛇の伝説や高松城の時鐘の伝説で知られた銅鐘があり、奈良時代の鋳造といわれる。正面の本堂の前は金堂跡。橋を渡ると創建当初の講堂跡に建てられた本堂がある。

本堂

鎌倉中期の建築で、重要文化財の指定を受けている。かつての講堂を再建したもので、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。堂内の本尊はケヤキの一木造りで秘仏とされている。高さ5.2mの立像で、裳には牡丹の絵模様や円形の散らし模様が描かれ、顔には髪や毛を墨で描き、唇には朱が施されている。この本尊には「弘治三丁六月二十八日四国中辺路同行二人」「大永八年五月二十日宝石宮島一之浦同行四人南無大師遍照金剛」という落書きがあり、室町時代には既に遍路が行われていた事がうかがえる。また、明治34年に国宝に指定されている。

大師堂

大師堂は多宝塔形式で、堂内で休憩ができ、千体地蔵が安置され、納経所にもなっている。

銅鐘

銅鐘は日本有数の古鐘で、奈良朝の鋳造と推定されている。昭和16年に国宝に指定された。この鐘には次のような話が伝わっている。慶長年間、高松藩主生駒侯は美しい鍾の音色に魅かれ、田地3000坪をお寺に寄進して銅鐘を城に持って帰ったとされる。ところが城下で鐘をつくと以前の美しい音とは違い「帰りたい、帰りたい」と聞こえた。更にその年、高松の城下に悪い病気が流行り、鐘のたたりを恐れて元の国分寺に返したといわれる。

七重の石塔

参道右手の境内には、七重塔の跡があり三十三個の礎石が残されている。この礎石を使い東西28m、南北14mの建物を復元することができる。中央の心礎に、鎌倉時代に建立されたという七重の石塔がある。また、地蔵堂の前にも礎石が十五個あり、これは一片が10mの七重塔が復元できる。

さぬき七福神

弁財天

水掛地蔵

願掛け不動明王

佛足石

龍の御衣木(霊木)

行事

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その他の情報

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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年05月21日 最終更新:2007年05月21日