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https://www.7key.jp/data/shikoku88/s51_ishitezi.html#basic
https://www.7key.jp/data/shikoku88/s51_ishitezi.html#other
神亀5年(728年)、聖武天皇の勅願により伊予大守越智玉純が鎮護国家の道場として伽藍を建立。本尊の薬師如来は、翌年の天平元年(729年)に行基が開眼、開基した。当時、寺号は安養寺と付けられて法相宗に属していたと伝えられる。その後、弘法大師が弘仁4年(813年)に来錫して真言宗に改められた。石手寺と寺号が改められたのは寛平4年(892年)で、衛門三郎の伝説からこの名がついたとされる。平安時代の末には七伽藍を備え、鎌倉時代の末期には河野氏らによって相次いで堂塔が再建された。永禄9年(1566年)には、長宗我部氏の兵火により十二間四面の金堂など多くの建物を焼失。ただ、幸いなことに本堂や仁王門、三重塔、鐘楼などは免れた。
寺域は6万6千平方mと広大で、焼失を免れた鎌倉時代建立の堂宇をはじめ、宝物館など見所が多い。
本堂は本瓦葺き、五間四面の入り母屋造り。
三重塔は、本瓦葺き屋根で塔内には、真言八祖の像が描かれている。
仁王門は文保2年(1318年)に河野通継が建造したもので、国宝に指定されている。仁王像も2.5mの大きさがあり、13世紀後半の作といわれている。仁王門までの回郎は絵馬堂にもなって句や連歌、能役者などの名前を書いた額が納められている。
大師堂の右手にあり、鎌倉末期の建立で子どもを守る鬼子母神が祀られている。安産祈願の信仰を集めており、妊婦はお堂にある石を持ち帰り、無事に出産を終えたら石を2つにして返す。そのため、堂の前には小石が高く積まれている。国の重要文化財。
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伊予国荏原に衛門三郎という強欲な長者がいた。門前に弘法大師が托鉢に来たが、少しの金をも惜しんで御布施をしなかった。大師はあくる日も、その次の日も托鉢に来たが、一度たりとも御布施をすることはなかった。さらに、毎日来る大師に三郎は激怒し、大師の持っていた托鉢用の鉄鉢を奪い取り、地面に叩きつけた。鉄鉢は8つに割れて飛び散ったという。そして大師を追い払い、それから大師は2度と三郎の元へ托鉢に来ることはなかった。それからしばらくして、衛門三郎の8人の子供達が、次々と原因不明の病に倒れ亡くなっていった。衛門三郎ははじめて自分の悪業に気付き、かつてのお坊さんは弘法大師だったのではないかと思い、会って罪を詫びるために大師の後を追った。これが遍路の始まりといわれている。四国霊場を回ること20数回、しかし大師に会うことが出来ない。そこで三郎は、逆に回れば会えるかもしれないと思い、逆回りで霊場を巡ったが結局大師に会うことが出来ず、ついに第12番札所焼山寺の手前で行き倒れとなった。意識が薄れてきたその時、弘法大師が現れた。三郎は、息も絶え絶えに自分の罪を詫びた。大師は、汝の罪は四国を修行して歩いたことで消えたといい、さらに死に行く衛門三郎に、何か望みはないかと聞いた。三郎は、私は伊予城主河野家の一族です、もし生まれ変わることが出来るなら、その世継ぎに生まれ、今度こそは天下万民のためにつくしたいと言った。すると大師は、三郎の左手に「衛門三郎再来」と書いた小石を握らせ、その後三郎は安心して息を引き取ったといわれる。その後、河野家に世継ぎが誕生したが、その子の左手は生後3年経っても開かない。困った父親が安養寺の住職に加持を頼んだ。住職が祈祷すると手が開き、その手中に「衛門三郎再来」と書かれたの小石が握られていたといわれる。その子は息方と名づけられ、15歳で家督を継いだ。その石がこの寺の宝物館に納められたところから、石手寺と改められたもので、今も石手寺に納められている。
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