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https://www.7key.jp/data/philosophy/sokrates.html#what
ソクラテス(Sōkratēs)は古代ギリシャの哲学者。父は大工(彫刻家)で母は産母とされる。ペロポネソス戦争に3度出陣して剛胆をうたわれたとされ、評議委員を務めたこともあったと伝えられる。ソクラテス自身は著作を行わなかったため、その思想は弟子のプラトンや歴史家のクセフォノンの著作を通じて紹介されている。プラトンの残した『対話篇』(会話形式で書かれているためそう呼ばれている)においては、ソクラテスは批判精神が強い理論家として描かれており、クセフォノンの『ソクラテスの思い出』に登場するソクラテスは実践道徳を説く平凡な教師として描かれている。どちらがソクラテスの実像に近いかは判っていない。「対話法」(問答法とも)と呼ばれるスタイルで人々を啓蒙したが、後に投獄されて自ら命を絶つこととなる。
プラトンの残した『対話篇』には、ソクラテスの晩年の10年ほどが書かれており、それによるとソクラテスはもっぱらソフィストとの論争に明け暮れた人生を過ごしていたようである。そのきっかけは、デルフォイ神殿から降された「ソクラテスに勝る知恵者はいない」との神託にあったとされる。ソクラテスはそれを友人のカイレフォンから聞き、その真意を確かめるべく当時知者といわれていたソフィストを訪ねて回った。それによって、どれほどソフィスト達が賢く、そして自分に知恵がないかすぐに判明をすると考えたのである。ところが、いざソフィスト達と話をしてみると、彼らが人間にとって一番大事なものが何であるかを解っておらず、しかも自分がそれを解っていないことさえ判っていないとソクラテスは気付いた。つまり、ソフィスト達は知らないのに知っていると思い込み、それに比べてソクラテスは知らないという点では彼らと同じでも、その知っていないことを自分で知っているとの自覚の分だけ自分の方が勝っていると悟ることとなる。これが有名な「無知の知」である。
フィロソフィとの言葉は、元々ギリシャ語で「知を愛する」との意味であり、ソクラテスはフィロソフィとの言葉を独特な意味で用いた。そもそも何かを愛するとは、その何かを欲するときであり、つまりまだその対象を自分のものにできていないことを表す。愛する者はその対象をまだ手に入れていないからこそ、それを欲するのである。即ちフィロソフィ(愛知者)とは、まだ知を有していない無知なものである。このような考えから、ソクラテスはフィロソフィを「知を求めてやまないもの」と考えたのである。この言葉によって、ソクラテス自身は無知な者と自己規定され、ソフィストとの対話では一方的に教えを請うものとして振舞うこととなる。その上でソフィストの提示する解答を厳しく吟味し、その欠陥を突いていくことで最後にはソフィスト自身に無知の知を自覚させるに至るわけである。こうして知者と自認する者の無知を晒させたことから、この方法は「エイロネイア」と呼ばれ、また自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということから「産婆術」とも呼ばれている。
ソクラテスは、知識の集積としての「知」ではなく、絶えざる自己吟味としての「知恵」(「善」や「美」と表現される)を重視したとされる。常識や通念を鵜呑みにするのではなく、常に自分の中でそれらを捉えなおして反省を重ねてこそ、人間にとって最も大切な徳(アレテー)がわかるに違いないと考えたのである。更に、正しく知ろうとする姿勢を持つことこそが、根本の徳に他ならないとの考えに至ることとなる。ソクラテスは、滅びることのない魂こそが自分自身に他ならないと考え、魂をよりよいものにするためには、何をするにあたっても正しいやり方を知ることだと主張した(徳は知である)。これは、デルフォイのアポロン神殿に掲げられていた「汝自身を知れ」との戒めの言葉にヒントを得たものとされる。またソクラテスは、徳を実践する者の人生は幸福であるとも主張した。
対話法を用いてソフィスト達を苦しめたソクラテスは、後に「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々(ダイモニア)を信じ、若者を堕落させた」(ソクラテスがギリシャの若者達から圧倒的な支持を得ていたことによる)などの罪で訴えられて公開裁判にかけられることとなった。ソクラテスは法廷の場でも自分の意思を貫き通し、また追放も拒否。その妥協を許さない態度によって余計に反感を買い死刑を宣告されたといわれる。その後、プラトンや友人達の手引きで脱獄の機会を得たが、「不正に対して不正で対抗する手段は、これまでの自分の生き方を否定することになる」とこの申し出を拒否。最期は毒杯をあおってその生涯を終えたといわれている。この顛末は『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しい。
諸君、死を恐れるという事は、智慧がないのにあると思っていることにほかならないのです。それは知らない事を知っていると信じていることになるのです。もしかすると、死は人間にとって最大の幸福であるかもしれないのです。しかし人間は死を最大の悪であると決めてかかって恐れているのです。これこそ知らないのに知っていると信ずる事、無知ではないでしょうか。それで私が少しでも智慧があると自ら主張するとすれば、私はあの世のことについてはよく知らないから、その通りよく知らないと思っているという点をあげるでしょう。
私としては、私に有罪を宣告した人々に対しても、また私の告発者に対しても、少しも憤りを抱いてはいない。もっとも、彼らが私に有罪を宣告したり、告発したりしたのは、私に害を加えんとしたのである。これが彼らの非難に値するゆえんである。それでもなお一つ彼らに頼んでおきたいことがある。諸君、他日私の息子たちが成人した暁には、彼らを叱責して、私が諸君を悩ましたと同じように彼らを悩ましていただきたい。いやしくも彼らが徳よりも以上に蓄財その他の事を念頭に置くように見えたならば。またもし彼らがそうでもないくせに、ひとかどの人間らしい顔をしたならば、そのとき諸君は私が諸君にしたと同様に彼らを非難して、彼らは人間の追求すべきものを追及せず、何の価値もないくせに、ひとかどの人間らしい顔をしていると言ってやっていただきたい。諸君がもしそれをしてくれるならば、その時、私自身も私の息子たちも、諸君から正当の取扱いを受けたというべきである。しかしもう去るべき時が来た。私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出会うか、それは神より外に誰も知る者がない。
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