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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b03_anyouin.html#basic
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この寺は、長楽寺・善導寺・田代寺が統合されてできた寺である。長楽寺は、嘉禄元(1225)年3月に北条政子が源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷に願行房憲静を開山として創建した寺と伝えられる。京都東山の寺号を移し、祇園山長楽寺と号した律宗の寺院であった。政子はその年の7月に死去、この寺に祀られることとなるが、北条泰時はさらに堂宇を建立して七堂伽藍を整備、政子の法名から「安養院」と名付けられた。しかし、長楽寺は元弘元(1333)年に兵火で焼失、名越派開祖の尊観上人が建立した善導寺も同じく焼失したためその跡地に移り、二寺は統合されて安養院長楽寺と号した。その際、政子の墓も移されている。
一方、田代寺は建久3(1192)年に源頼朝の家臣で平家追討の軍監、田代信綱が尊乗上人を開山として比企ヶ谷に建立したのに始ると伝えられる。田代は、入宋した「然大徳が所持していた観音の画像を深く信仰、軍陣に向かう折には必ず鎧の中に捧持して祈念を怠らなかったといわれる。戦場で危難を逃れて武勲を納められたのは全てこの観世音のご利益と田代は考え、その報恩のために白花山田代寺を創建したといわれる。また、田代信綱が信仰したのは、恵心僧都が霊木から彫刻した観音像であるとの説もある。恵心僧都が天元年間(978〜983)に、相模国愛甲郡都久居の辻堂で一夜を明かしていると、難陀龍王の使者と名乗る老人が霊夢に現れた。翌日、川のほとりで数万の亀が群がり一本の霊木を守護していたためこの木で観音像を彫刻し、辻堂に安置したとされる。田代はこの観音を信仰し、尊乗上人を迎えて鎌倉比企ヶ谷に移転、以来田代堂と呼ばれるようになったとされる。
この田代寺は江戸時代になって安養院に統合された。これは、安養院が延宝8(1680)年に火災に遭い、その際に田代寺をここに移して復興されたためと伝えられる。本尊である千手観音は田代寺にあったもので、元は白花山普門院と号し、本来札所だった田代寺が安養院に合併され、坂東三十三箇所の三番札所である現在に至る。
本堂の後ろにある大小二基の石造宝篋印塔は、1380年に建立された鎌倉最古のものとして国の重要文化財に指定されている。大きい方が尊観上人の培、小さい方が政子の墓であると伝えられる。安山岩の培には「二位政子御法号安養院殿 如実妙観大禅定尼」と陰刻されている。
天保16年に建てられた本堂と庫裡は、大正の大震災で全壊し、現在の銅葺の観音堂は昭和3年の建立。向拝には「祗園山」と増上寺大僧上の妙定月の書いた扁額があり、内陣正面には阿弥陀如来、その後ろに本尊千手観音が安置されている。その御姿は、「蓮肉に置いた裸足のふくらみや細くきれ長な眼尻には、人間に対する厳しい愛がある」と評されている。
子安地蔵尊を祀った日限地蔵堂。弘法大師によるものといわれている。
鎌倉観音霊場第3番札所、鎌倉地蔵霊場24番札所にも指定されている。
別名「良縁観音」とも呼ばれ、女性の参拝が多いといわれる。これは、田代寺の観世音の力によって頼朝と政子が結ばれたと信じられていることに由来する。
本堂には尼僧姿の政子の木像が安置されている。
境内のツツジは鎌倉随一として知られる。
境内には、名越派の開祖尊観上人が植えたとされる樹齢700年の槇の巨木がある。鎌倉市の天然記念物に指定されている(昭和48年4月11日指定)。
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