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大祓とは、「おおはらえ」と読み、神道における祭礼のひとつ。「延喜四時祭式」上(『延喜式』巻第一)には「六月晦日大祓 十二月准此」とあり、6月と12月の各晦日(新暦では6月30日と12月31日)の両度、親王以下百官が朱雀門前に参集して、半歳の間に知らず知らずのうちに犯した罪を祓い、除去する除災行事である。『神道名目類聚抄』では、「祓とは、つつしみの義なり。邪念発れば是を除、あやまりては即改、不浄なれば是を去。(中略)風、梢の塵を拂、水、物の垢を洗ふが如し。」とし、『養老神祗令』では「祓とは不祥を解除することをいう」とされ、大祓とは犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事である。大祓で祓い除かれる罪とは、悪行そのものを指すだけではなく、人の凶悪な行為によってもたらされると信じられた災気や、人の行為とは無関係に生じる災気をも指しており、それらの災気が人の心身に災禍を及ぼすものと考えられていたため、それらの災気を災禍の本源である黄泉の国へと祓いやる目的がある。恒例としては、6月と12月の年2回行われ、6月の大祓を「夏越の祓(なごしのはらえ)」、12月の大祓を「年越の祓(としこしのはらえ)」と呼ぶ。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。また、恒例以外に臨時で大祓が行われることもあり、諸国で臨時に行われる諸国大祓、その他に謀叛や穢れがあった場合や、大嘗祭、また斎王の卜定・群行など重要な神事・儀式などに際して、朝廷においても臨時に行われた。尚、臨時に大祓が行われる場合は、恒例の大祓とは異なり、その斎行場所は建礼門前であった。
大祓の起源について詳細は判っていないが、『日本書紀』や『古語拾遺』の記述からみて、少くとも上代の頃には行われていた儀式と考えられている。その後、大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められた。この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣など、京にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。恒例の大祓については、『養老神祗令』に、「凡六月、十二月の晦日の大祓には、中臣は御祓麻を上れ、東西文部は祓刀を上り、祓の詞を読め、訖りなば、百官男女を祓所に聚め集へて、中臣は祓の言葉を宣り、卜部は解除を為よ、」とあり、平安時代の大祓の儀式次第については『延喜式』や『西宮記』、『北山抄』、『江家次第』などに詳細に記されている。その後、百年ほどは盛大に行われたが、応仁の乱の頃には衰退、江戸時代の1691年に再開され、次第に広まった。明治4(1871)年の太政官布告にて、明治新政府により「夏越神事」「六月祓」の称の禁止と「大宝律令」の「大祓」の旧儀の再興が命じられたため、全国の神社で行われるようになった。戦後には「夏越神事」「六月祓」の称も一部では復活し、現在に至る。
夏越の祓では、多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方:鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では、茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。
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大祓の儀式の際に、卜部氏が宣読する宣命体形式の祝詞である。犯した罪や穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓詞(なかとみのはらえことば)の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残ったと考えられている。『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」との注記がある。今日使用されている大祓詞は、この「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものであり、その成立については賀茂真淵は天智・天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えているが、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。
当初は、大祓の際に参集者に対して宣り聞かせるものであったが、後に神に対して唱えられるようになった。中世には陰陽道や密教と結びつき、陰陽道の呪言や仏教の経典のように、唱えるだけで功得が得られると考えられるようになった。さらに、唱えれば唱えるほど功得が増すと考えられ、何千回、何万回も唱えるようになり、より唱えやすくするために、大祓詞の要点だけをまとめた「最要中臣祓」「最上中臣祓」が作られた。特に仏家神道、儒家神道で重視され、『中臣祓訓解』『中臣祓風水草』などの大祓詞の注釈書も書かれた。現在では大祓の際に参拝者自らが唱えるほか、神社本庁包括下の神社では毎日神前にて唱えられている。神社本庁のほか、各種の教派神道・神道系新宗教の一部でも使われているが、延喜式記載のものから内容に改変が加えられており、教団によっても多少の差異がある。
大祓詞は、内容から大きく前段と後段の2つに分けられる。前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞くように」との内容の文言から始まる。これは、当初の大祓詞が参集者に対して宣り聞かせるものであったことの名残であり、今日の神社本庁の大祓詞ではこの部分は省略されている。次に、葦原中国平定から天孫降臨し天孫が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られる。そしてそのような国の国民が犯してしまう罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙し、そのような罪が出たときの罪の祓い方が述べられる。罪の内容については、今日の「罪」の観念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本庁の大祓詞では罪名の列挙を省略して単に「天津罪・国津罪」とだけ言っている。後段では、そのような祓を行うと、罪・穢れがどのように消滅するかが語られる。罪・穢れが消滅する様を様々な喩えで表現した後、四柱の祓戸神によって消え去る様子が述べられる。前段の最後には「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とあるが、その「天津祝詞の太祝詞事」の内容はどこにも書かれていない。これが何を指すのかについて、国学が興った江戸時代以降、議論されてきた。本居宣長は『大祓詞後釈』で、「天津祝詞の太祝詞事」は大祓詞自体のことであるとする説を唱えた。賀茂真淵も『祝詞考』で同様の意見を述べている。戦前に神社を管轄していた内務省ではこの説を採用し、その流れを汲む神社本庁でもその解釈をとっている。神社本庁では、前段と後段の間には何も唱えず、一拍置くだけとしている。しかし、「天津祝詞の太祝詞事」は神代より伝わる秘伝の祝詞であり、秘伝であるが故に延喜式には書かれなかったのだとする説もある。
輯侍親王・諸王・諸臣・百官人等諸聞食止宣、
天皇朝廷尓仕奉留比禮挂伴男・手襁挂伴男・靫負伴男・剣佩伴男・伴男能八十伴男乎始氐、官官尓仕奉留人等乃過犯家牟雜雜罪乎、今年六月晦之大祓尓、祓給比清給事乎、諸聞食止宣、
高天原尓神留坐、皇親神漏岐・神漏美乃命以氐、八百萬神等乎神輯輯賜比、神議議賜氐、我皇御孫之命波、豐葦原乃水穂之國乎、安國止平久處知食止事依奉岐、如此依志奉志國中尓、荒振神等乎波、神問志尓問志賜、神掃掃賜比氐、語問志磐根・樹立・草之垣葉乎毛語止氐、天之磐座放、天之八重雲乎、伊頭乃千別尓千別氐、天降依左志奉支、 如此久依左志奉志四方之國中登、大倭日高見之國乎、安國止定奉氐、下津磐根尓宮柱太敷立、高天原尓千木高知氐、皇御孫之命乃美頭乃御舎仕奉氐、天之御蔭・日之御蔭止隠坐氐、安國登平氣久處知食武國中尓、成出武天之益人等我、過犯家牟雜雜罪事波、天津罪止畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸、許許太久乃罪乎天津罪止法別氣氐、國津罪止八、 生膚斷・死膚斷・白人・胡久美・己母犯罪・己子犯罪・母與子犯罪・子與母犯罪・畜犯罪・昆虫乃災・高津神乃災・高津鳥乃災・畜仆志蠱物爲罪、許許太久乃罪出武、如此出波、天津宮事以氐、大中臣天津金木乎本打切、末打斷氐、千座置座尓置足波志氐、天津菅曾乎本苅斷、末苅切氐、八針尓取辟氐、天津祝詞乃太祝詞事乎宣禮、 如此久乃良波、天津神波天磐門乎押披氐、天之八重雲乎伊頭乃千別尓千別氐處聞食武、國津神波高山之末・短山末尓上坐氐、高山伊惠理・短山之伊惠理乎撥別氐聞食武、如此處聞食氐波、皇御孫之命乃朝廷乎始氐、天下四方國尓波、罪止云布罪波不在止、科戸之風乃天之八重雲乎吹放事之如久、 朝之御霧・夕之御霧乎、朝風・夕風乃吹掃事之如、大津邊尓居大船乎、舳解放艫解放氐、大海原尓押放事之如久、彼方之繁木本乎、燒鎌乃敏鎌以氐、打掃事之如久、遺罪波不在止、祓給比清給事乎、高山末・短山之末與理、佐久那太理尓落多支爪速川能瀬坐須瀬織津比止云神、大海原尓持出奈牟、 如此持出往波、荒鹽之鹽乃八百道乃、八鹽道之鹽乃八百曾尓坐須速開都比止云神、持可可呑氐牟、如此久可可呑氐波、氣吹戸坐須氣吹戸主止云神、根國底之國尓氣吹放氐牟、如此久氣吹放氐波、根國底之國尓坐速佐須良比登云神、持佐須良比失氐牟、 如此久失氐波、天皇我朝廷尓仕奉留官官人等乎始氐、天下四方尓波、自今日始氐罪止云布罪波不在止、高天原尓耳振立聞物止馬牽立氐、今年六月晦日夕日之降乃大祓尓、祓給比清給事乎、諸聞食止宣、
四國卜部等、大川道尓持退出氐、祓却止宣、
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