義 - 武士道

広告

広告

義とは

最終更新
2007-05-06T09:44:00+09:00
この記事のURI参照
https://www.7key.jp/data/bushido/gi.html#what

武士道での中心かつ最も厳格な徳目は「義の精神」とされる。「義」とは、打算や損得のない人間としての正しい道、すなわち正義を指すものであり、「義」から派生した言葉に大義・道義・節義・忠義・仁義・信義・恩義・律義、更には義理・義務・義憤・義侠・義士・義民・義挙などがある。武士はこの「義」を武士道精神の中心に据え、これを踏み外した者は卑怯者として糾弾の対象となった。

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

時は戦国時代、上杉謙信は越後の龍、武田信玄は甲斐の虎と呼ばれ、ともに強力な戦国大名であった。2人はそれぞれ天下統一を目指して国を安定させ、勢力を拡大、隣国に住む者としてぶつかり合うこととなる。かくして川中島で、1553年、1555年、1557年、1561年、と4度にわたる決戦が行われたが両者譲らず、結局は痛み分けとなる。一方で両者はそれぞれ互いにぶつからないルートで京都を目指していた。上杉謙信は1559年に北陸ルートで上洛に成功。足利将軍義輝から関東管領を任じられた。一方の武田信玄は太平洋側からの東海ルートで都を目指すも、途中駿河の大大名今川氏と対立。ここで今川氏真は1567年8月、姻戚関係にあった相模国の北条氏康の協力を仰ぎ、甲斐へ向かう商人の往来を禁止する武田領内への「塩留め」を行った。このことで甲斐に塩が入らくなり、海を領土に持たない甲斐国では死活問題、領民達は非常に苦しんだという。これを聞いた謙信は、敵である信玄の窮状を哀れみ、一通の書状を送ったと言われる。

「私が貴公(信玄)と戦うのは弓矢であって、米や塩で戦っているのではない。これより先、塩が必要ならば我が国から供給しよう。」

また謙信は併せて、越後と甲斐で取引される塩が高価にならないようにしたとも言われている。「義」を重んじる謙信にとっては、いかに敵とはいえ窮状に陥ったときは助けるのが武士であり、弱みにつけ込み攻めるのは卑怯と考えたのである。これは対立を越えた謙信ならではの「義」の通し方として後世まで語り継がれることとなる。

敵に塩を送るとの諺の元となったとされる上杉謙信の有名なエピソードだが、こうした話が美談として長年伝えられたということは、裏を返せばそうした侍が少かったからとも考えられる。武士道が「義」を最高の支柱に置いたということは、言い換えれば、そうした至難の「義」を追求する事により精神の「美学」を求めたのではなかろうか。生死をかけた戦いに望む際、全ての武士が上杉謙信のようにフェア・プレイの精神を守ったわけではないだろう。生きるか死ぬかという場面において、例え卑怯者と蔑まれようとも勝ちたいと思うのが人情であり、またいつの世にあっても、本能は美学よりも強く、理想は現実の前に打ち砕かれるのが世の常である。だからこそ、武士道はそのことを十分知りながら、その現実を超越する理想を自信の指針として厳しく求めたのである。さらに支配階級に位置する者の義務として、あえて最も難しい「義」を徳目の中心におき、その行為を自律的に求めることで、民の模範となるよう、その理想に一歩でも近づく修行を積んだのである。

義の定義

義と義理

「義理」という観念はもともと「義」に由来し、その意味は文字通り「正義の道理」とされた。義理との言葉ができた理由は、恐らく我々の行為、例えば父母に仕えるとの行為の唯一つの動機は愛など別の動機かもしれないが、もしそれがない場合、孝行を命ずるには何らかの他の権威が必要となる。そこで社会が義理にその権威を求めたものと思われる。義務が重荷だと感じられるとそこに義理が介入し、その人が義務を怠るのを防ぐこととなる。つまり義理は厳しい監督者の側面を持ち、手に鞭を持って怠けるものを打ちその役割を果たさせるものである。ただし、時が経つにつれて義理は世間がその人の立場上履行を期待する漠然とした義務感を意味するようになり、更には何らかの行為を説明したり是認したりする際に持ち出される曖昧な分別の道理と化した。元々は正義の道理として出発したはずの義理はこじつけに落ちぶれ、更には非難を恐れる臆病にまで成り下がったのである。

広告

Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年04月23日 最終更新:2007年05月06日