織田信長
織田信長の概要
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織田信長(おだ のぶなが:天文3年5月12日[1534年6月23日] - 天正10年6月2日[1582年6月21日])は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用。既存の権威や勢力の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器であった火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結へと導いていったが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策から魔王とも恐れられた。
織田信長の略歴
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- 天文3(1534)年5月12日:尾張国の戦国大名、織田信秀の子として尾張勝幡城(那古野城説もある)で生まれる。幼名は吉法師。
- 母・土田御前が信秀正室のため嫡子となり、2歳にして那古野城主となる。
- 天文15(1546)年:古渡城にて元服し織田上総介(織田信長)と称する。
- 天文17(1548)年:教育係であった平手政秀により、信秀と激しく争った宿敵美濃国の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶と政略結婚。
- 天文18(1549)年:信長は正徳寺で道三と会見(天文22年説もあり)。
- 天文20(1551)年:父・信秀が没したため、家督を継ぐが、その葬儀において祭壇に抹香を投げつける(抹香の話は後年の創作ともされる)。
- 天文22(1553)年:教育係の平手政秀が、奇行が目立つ信長を諌めるため諫死。信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔う。
- 信秀の死後、かねてから信長の行いに呆れていた織田家重臣の林秀貞、林美作守、柴田勝家らは信長を廃し、聡明で知られた信長の同母弟・織田信勝(信行)を擁立しようとする。これに対し信長には森可成、佐々成政、河尻秀隆らが味方して対立。
- 弘治2(1556)年4月:義父の斎藤道三が嫡男の斎藤義龍との戦いに敗れて死去。
- 弘治2(1556)年8月24日:道三の支持を失ったのを好機と見た信勝派は挙兵して信長と戦うが、敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母の土田御前の仲介により信勝、勝家らを赦免。
- 弘治3(1557)年:信勝は再び謀反を企てる。しかし稲生の戦い後から信長に通じていた柴田勝家の密告によりこれを知った信長は、病気と偽り信行を清洲城に誘い出し、河尻秀隆に殺させる。
- 永禄2(1559)年:この年までには尾張国内の支配権を確立。
- 永禄3(1560)年5月:足利将軍家の庶流である駿河の戦国大名・今川義元が2万とも4万とも号する大軍を率いて尾張へ侵攻。織田軍はこれに対して防戦するが、総兵力は5000人。今川軍は三河の松平元康率いる三河兵を先鋒にして、織田方の城砦を次々と陥落させていく。
- 永禄3(1560)年5月19日:深夜、幸若舞『敦盛』を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で約4000人の軍勢を整えて出撃、今川軍の陣中に強襲をかけ、当時、最も天下に近い人間といわれていた今川義元を討ち取る(桶狭間の戦い)。
- 永禄5(1562)年:今川氏の支配から独立して三河国の戦国大名となった松平元康と清洲同盟(織徳同盟)を結んで背後を固める。
- 斎藤道三を殺して領主となっていた美濃の斎藤義龍の攻略を開始。
- 永禄4(1561)年:義龍が急死し、嫡男の斎藤龍興が後を継ぐと斎藤家は家臣団内部で分裂が始まり、信長は対斎藤戦で優位に立つ。
- 永禄7(1564)年:北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強める。その際、信長は妹のお市を輿入れさせている。
- 永禄8(1565)年:信長は伊勢へ進出し、北畠具教など伊勢の諸氏と戦う。
- 永禄9(1566)年:攻めあぐねていた墨俣において木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じて墨俣城を築かせ、そこを拠点にする。
- 永禄10(1567)年:斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れる。
- 永禄11(1568)年9月:信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始。このとき信長は義昭から副将軍の地位を勧められたが、信長は既に将軍家を見切っており謝絶。
- 永禄12(1569)年1月:信長率いる織田軍主力が美濃に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら美濃浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本国寺を攻撃(六条合戦)。信長は豪雪が降る中をわずか2日で援軍に駆けつけるという神速の速さを見せたと言われているが、到着前に浅井長政の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は敗退。
- 永禄11(1568)年:神戸具盛を降伏させ、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込む。
- 永禄12(1569)年:伊勢国司である北畠具教を降伏させ、次男の織田信雄を北畠氏の養子として送り込む。のち具盛は幽閉され、北畠一族は殺害されている。
- 永禄12(1569)年:信長は足利義昭の将軍権力を制限するため「殿中御掟」9か条の掟書、のちには追加7か条を発令し、これを義昭に認めさせる。
- 元亀元(1570)年4月:信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、浅井との盟約を反故にし、盟友の徳川家康軍と共に越前へ進軍を開始。織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで、北近江の盟友であった浅井長政に、織田・徳川連合軍は背後を突かれる形となる。殿軍を務めた木下秀吉や徳川家康らの奮闘(金ヶ崎の退き口)もありなんとか京に逃れる。
- 将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化し、義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成。
- 元亀元(1570)年6月:近江国姉川河原で徳川家康軍と共に浅井・朝倉連合軍と戦う(姉川の戦い)。浅井方の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦するが、遂に浅井・朝倉連合軍を破る。
- 元亀元(1570)年8月:信長は摂津で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦。更に信長本隊が摂津に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が近江坂本に侵攻。
- 元亀元(1570)年9月23日:未明に急ぎ本隊を摂津から近江に戻すという神速とも言えるスピードで帰還。慌てた浅井長政、朝倉義景らは比叡山に立て籠もって抵抗するが、これに対して信長は近江国志賀において浅井・朝倉連合軍と対峙(志賀の陣)。しかし、その間に本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長は実弟の織田信興、重臣の坂井政尚らを失い、進退に窮する。
- 元亀元(1570)年12月13日:信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、浅井・朝倉軍と和睦することに成功。
- 元亀2(1571)年9月:何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにする。
- 元亀3(1572)年10月:足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄が上洛の軍を起こす(武田軍の総兵力は3万)。
- 元亀4(1573)年:武田軍は遠江から三河に侵攻し、2月には三河野田城を攻略。信玄の上洛に呼応する形で、将軍・足利義昭が三好義継・松永久秀らと協力して挙兵に及ぶ。
- 元亀4(1573)年4月5日:正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦。
- 元亀4(1573)年4月12日:信長最大の強敵であった武田信玄が病死し、武田軍は甲斐に帰国する。
- 元亀4(1573)年7月:叛旗を翻して二条城や槙島城に立て籠もっていた足利義昭を破って京都から追放し、室町時代を終らせる。
- 元亀4(1573)年7月28日:元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させる。
- 天正元(1573)年8月:信長は細川藤孝に命じ、淀城に立て籠もっていた三好三人衆の一人・岩成友通を討伐。同月、信長は3万の軍勢を率いて越前に行軍、刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉氏を攻略し、返す刀で小谷城を攻略して浅井久政・長政父子を討ち取り浅井氏に勝利。
- 天正元(1573)年9月24日:信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島の一向一揆による抵抗も激しく、長期戦を嫌った信長は10月25日に撤退を開始。
- 天正元(1573)年11月:河内の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こし、信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内に送り込む。信長の実力を恐れた義継の三家老らによる裏切りで義継は11月16日に自害、三好氏もここに滅亡。
- 天正元(1573)年12月26日:大和の松永久秀も万策尽き、多聞山城を明け渡すことで信長に降伏。
- 天正2(1574)年1月:朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)が一乗谷で攻め殺される。それに呼応する形で、甲斐の武田勝頼が東美濃に侵攻。信長はこれを迎撃しようとするも信長の援軍が到着する前に東美濃の明智城が落城、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退。
- 天正2(1574)年3月:信長は上洛して従三位、参議に叙任される。
- 天正2(1574)年7月:信長は3万の大軍を率いて伊勢長島を水陸から完全に包囲、兵糧攻めに追い込む。
- 天正2(1574)年9月29日:兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出る。信長は了承するが、一揆衆の退去する動きが遅いとして船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略。
- 天正3(1575)年4月:武田勝頼は信玄の死後、武田氏を裏切って徳川家康の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5000の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せる。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。
- 天正3(1575)年5月12日:信長は3万の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河の野田で徳川家康軍8000と合流。
- 天正3(1575)年5月21日:織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。この戦いで、信長は鉄砲隊を3つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法を使ったとされ、武田軍に圧勝。
- 天正3(1575)年11月4日:信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。
- 天正3(1575)年11月28日:信長は嫡男・織田信忠に織田家の家督、並びに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居。
- 天正4(1576)年1月:信長自身が指揮を取り、琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始。
- 天正4(1576)年1月:信長に誼を通じていた丹波の波多野秀治が叛旗を翻し、石山本願寺も再挙兵。
- 天正4(1576)年4月:明智光秀や荒木村重、原田直政を大将とした3万の軍勢を大坂に派遣するが、葦原の戦いで大敗、原田直政をはじめ1000人以上が戦死。
- 天正4(1576)年5月5日:信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3000人ほど。しかし信長は5月7日早朝、その3000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する石山勢1万5000人に攻め入った(天王寺砦の戦い)。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は石山勢の撃破に成功。
- 天正5(1577)年2月:紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣。
- 天正5(1577)年3月:雑賀衆の頭領・雑賀孫一を形式上降伏させ、紀伊から撤兵。柴田勝家を総大将とした3万を前軍、自らが率いる本隊1万8000人を後軍として出陣。しかし9月15日に七尾城は落城し、9月23日に前軍は謙信率いる上杉軍の前に敗れる(手取川の戦い)。信長はこれを知り謙信との衝突を避け、安土に帰還。
- 天正6(1578)年3月13日:上杉謙信が急死。謙信には実子がいなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始め、この間織田軍は上杉領の能登、加賀を攻略。
- 天正期に入る、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家に備わり、信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備。
- 天正7(1579)年:波多野秀治を降伏させ、処刑。毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転。
- 天正8(1580)年4月:本願寺と正親町天皇の勅命のもと有利な条件で和睦し、大坂から退去させる。
- 天正10(1582)年3月11日:甲斐東部の田野において武田勝頼・信勝親子を討ち取り、武田氏は滅亡。
- 天正10(1582)年5月15日:駿河国加増の礼の為に徳川家康が安土城を訪れる。そこで信長は明智光秀に接待役を命じ、光秀は17日まで渡って家康を手厚くもてなす。
- 天正10(1582)年6月2日:秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀軍が突然京に現れ、信長のいる本能寺を急襲。信長は燃え盛る炎の中で自害したといわれている(本能寺の変)。享年49(47歳没)。
織田信長の残した名言
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- 2007-11-16T00:00:00+09:00
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- 先車の覆るを見て、後車の戒めとする。
- 戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ。
- 仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。
- 攻撃目標一点に行動を集約せよ。むだな事はするな。
- 臆病者の目には、敵は常に大軍に見える。
織田信長の逸話
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- 2007-11-16T00:00:00+09:00
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- 幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から「尾張の大うつけ」と称された。当時から身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたとされる。
- まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の清洲織田家の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父の信秀も寝耳に水の行動をとり、若き頃から豪胆さを見せていた。
- 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した『馬揃え』にビロードのマントと西洋帽子を着用し参加したといわれる。晩年は戦場に赴くときも南蛮鎧を身に付けていたと言われている。ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示し、譲り受けて彌介(やすけ)と名付け側近にしている。
- イエズス会の献上した地球儀や時計、地図などをよく理解したと言われる。当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解出来なかったが、信長は「理にかなっている」と言い理解したとされる。
- 『信長公記』によれば、浅井父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、杯代わりにして家臣に飲ませたという話になっているが、これは小説家の潤色であり実際には使用していない。髑髏を薄濃にするというのは、死者への敬意を表すものであり、現在の常識でもって信長の非道を唱えるのは正しくない。
- 幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特にお気に入りでよく舞ったと言われている。
- 大の相撲好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。相撲大会は身分問わず、信長の側近と庶民が入り混じって相撲をとっていたといわれる。
- 個人的な武勇に優れていたといわれる。桶狭間の戦いをはじめ、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って奮戦しているほどである。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であった。
- 信長の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、堀秀政や森蘭丸といった命令を遂行するために必要な秘書官だけが登用されていた。
- 天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。これは、信長が勝家の実力を評価し、信頼していたためと思われる。事実、信長は存命中、勝家に対して越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価して、二度も降伏を許している。このように、有能な人物であれば、その罪を許して重用もしていた。
- ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことは殆どない。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることは殆ど無く、自分以外の大名の殆どを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠まわしな言い方を嫌う」と評している。身長は約170cm程度で、500m向こうから声が聞こえたと言う位に、相当に甲高い声であったと言う。また血痕や遺髪から血液型を鑑定し、A型である事が判明した。
- 羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど人間味を見せているところがある。
- 内政や民心掌握に敏腕を発揮しており、信長が支配下に置いた尾張・美濃などの多くは信長によって終生、善政が敷かれていた。相次ぐ戦乱で荒廃した京都の町人たちも、厳正な信長の統治に対しては歓迎したという。
- 信長は家臣に対する冷徹な態度と違い、領民に対しては寛大だったといわれる。あるとき、信長が供回りを連れて岐阜の城下町を見回っていたとき、外に出て信長一行に礼をするどころか家の中で眠っていた男がいた。これは無礼討ちされてもおかしくない行為であり、家臣が死刑にするように求めたが、信長は「わしがいるにも関わらず、家で寝ているのは平和な証拠のひとつだ。わしの治める国が全てそのようになってくれるとよいものよ」と言って、取り合わなかったという。
- 楽市楽座は信長が最初に行なった施策と言われることが多いが、実際には近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行なった施策とされる。
- 明智光秀の娘婿・明智秀満が信長の死体を探したが見つからなかったといわれているが、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。
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