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般若心経とは「はんにゃしんぎょう」と読み、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つ。宗派によって呼び方は様々あり、仏説摩訶般若波羅蜜多心経、摩訶般若波羅蜜多心経、般若波羅蜜多心経とも呼ばれる。単に心経とする場合もある。僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、一部の宗派を除き僧侶・在家を問わず、読誦経典の1つとして、永く依用されている。日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用している。ただし、浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗・法華宗は『妙法蓮華経(法華経)』を根本経典としているため、般若心経を唱えることはない。これは当該宗派の教義上、用いる必要が無いという立場であり、心経を否定していることでは無い。
古代インドで成立した仏教経典で、原典は2種類あるとされる。中国ではこれが10種類程度訳された。最初に訳したのは鳩摩羅什(くまらじゅう)という僧侶だとされる。現在最も広く使われているのは、西遊記で有名な玄奘三蔵法師の訳したものである。玄奘は西暦628年に唐の都長安を出発してインドに入り、中インドのナーランダー寺院で戒賢(かいけん)らについて学んだとされる。また、インド各地を訪ねて膨大な梵字仏教経典を集め、645年に帰国した。そして没するまでの18年ほどの間に般若心経の漢語訳に勤めたとされる。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識 亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経。
般若心経には元々題名がなく、般若心経が中国に伝わった際にサンスクリット原典の最後にある「智慧の完成の心」という句が「般若波羅蜜多心経」と訳されて経題にされたと考えられている。この経題だが、玄奘訳の般若心経には「摩訶」がついておらず、鳩摩羅什訳では『摩訶般若波羅蜜大明呪経』と「摩訶」の語がつけられている。また、『開元録』(経の目録)には、支謙(3世紀頃)の翻訳として『摩訶般若波羅蜜呪經一卷』が紹介されている。なお、真言宗では空海の持ち帰ったサンスクリット原典に従い、その上に「仏説」を付ける。
サンスクリット語の「マハー」の音写語で、「偉大な」との意味。
サンスクリット語の「プラジュニャー」の音写語で、「智慧」や「知恵」の意味。ただ、単純な「知識」や「判断力」を指すのではなく、苦行や瞑想の末に開く悟りの智慧を表し、「根源的な叡智」と解釈されるものである。知識を得てそれを実行し、その体験を生かして知識を深め、また実行し、さらに知識を深めとの不断の繰り返しの中で「般若」が生まれると考えられる。なお、東南アジアに伝わった上座部仏教の聖典語であるパーリ語の「パンニャー」の音写語とも言われている。
サンスクリット語の「パーラミター」の音写語。「最高の」「究極の」という意味をあらわす形容詞「パラマ」の派生形、名詞「パーラミ」に、「ター」との抽象名詞を作る語尾を附した単語。中国や日本では、「到彼岸」(彼岸に到れる)と解釈し、彼岸に度る(渡る)との意味で、単に「度」とも訳される。到彼岸は「悟りの境地に到る」の意味。
原語は「フリダヤ」で、「心臓」や「精髄」を表す。移ろい易い人間の心を指すものではなく、般若経という一群の経典類の真髄を意味するものである。
「経」はサンスクリット原典にはなく、中国に伝わった際に「経」が最後に附けられたと考えられている。元来「経」は縦糸を意味し、それが転じて「教えの基本線」との意味になり、釈迦や賢人の教えを「経」と称するようになったとされる。
「菩薩」は「菩提薩埵(ぼだいさった)」の略で、「ボーディサットヴァ」の音写語。元々は釈迦の前生における呼び名として使われていたが、やがて全ての人間は仏に成りうると考えられるようになり、悟りを求めて精進する者を「ボーディサットヴァ」と呼ぶようになった。更には、観自在菩薩、地蔵菩薩など菩薩の理念形とされる偉大な菩薩達が考え出され、新たな信仰が作り出されることとなった。ここで、観自在菩薩は「観世音菩薩」や「観音菩薩」のことであり、「観音さま」との名称で日本人には馴染み深い。元々『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』(『観音経』)に登場する菩薩で、人間の苦しみの声を観て、どんな苦しみもあらゆる姿に変身して救いにきてくれる菩薩として描かれている。この菩薩を鳩摩羅什は「観世音」、玄奘は「観自在」と訳した。サンスクリット語での言語は「アヴァローキテーシュヴァラ」であり、これは「アヴァローキタ」(観)と「イーシュヴァラ」(自在)に分解できるため、玄奘は「観自在」と訳したと考えられる。また、更に古い時代には言語が「アヴァローキタスヴァラ」だったと推定され、これは「アヴァローキタ」(観)と「スヴァラ」(世の中のすべての音)に分解できるため、鳩摩羅什は「観世音」と訳たと考えられている。
「般若波羅蜜多」は、先に説明した「到彼岸の智慧」。これには「浅」と「深」があり、空を求めて色を否定する「色即是空」だけでは「浅」、色を全うして空を見る「空即是色」になって「深」とされる。また、般若波羅蜜多は菩薩の修行徳目である六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の1つ、智慧波羅蜜を指すのではなく、六波羅蜜全てを含むものとしての般若波羅蜜であると明示するためとも言われている。「業ずる」は、特別の修行をするというよりは、日常の生活のなかでの「行い」を表す。
最初の5つは「智慧」の実践と考えられ、これらの実践を通して知識が「智慧」に高まるといえる。しかし「智慧」の裏付けがないと実践はその場限りのものとなり、良い習慣、更には良い人格に結びつくことがないとされる。
「五蘊」とは、色・受・想・行・識の5つの集まりを指し、人間はこの5つの集まりからできている、というのが仏教の存在に関する考え方の1つである。「色蘊」は肉体を含む物質的構成要素を指し、「受蘊」は見る・聞く・触るなどの感受作用を指し、「想蘊」は心に想う表象作用を指し、「行蘊」は能動的な働きである意志作用を指し、「識蘊」は分別や判断などの認識、概念作用を指す。また、仏教には「四大(しだい)」との考え方があり、地・水・火・風の4つの要素が合わさり「身体」をなすとされる。更に四大に「空」を加えたものを「五大」と呼び、五大が万物の構成要素と考えられている。また、「空」の原語はサンスクリット語での「シューニャ」で、数字の「ゼロ」の原語と同じである。ただ、「空」はゼロとは少し違い、「本質的ではない」との意味が強いとされる。ゼロはどちらかといえば「無」の意味に近いのだろう。「照見」とは、観自在菩薩の「観」の原語の動詞形の訳語で、即ち「照見する」は「観る」と同じことである。つまり、「五蘊はすべて空であると照見して」とは、「人間は肉体も精神も全て空なる存在であることが解り」と解釈できる。観音さまは救済行を実践する中で、救済する者とされる者、または救済という行為そのものが全て「空」であると見極めたのである。救済の代償として感謝や報いを求め、後々まで恩に着せることもない。救済された側は助けられたことに感謝こそすれ、それを負担に思うこともない。救済という行為自体が世に知られて名誉として残ることもない。これが、観音の救済であるとしたのである。
「度」に「さんずい」を付けると「渡」となり、川や海などの水上を「わたる」意味となる。ただ、「わたる」のが水上ではない場合、さんずいは必要ない。つまり、「度」は仏の悟りの世界である「彼岸」に「度(わた)す」との意味となり、「一切の苦厄を度」すというのは、「全ての苦しみや災いを超越する」との意味となる。ただ、この文句はサンスクリットの原本にはないため、漢訳した玄奘が加えたものと考えられている。
「舎利子」は、仏陀十大弟子の1人「シャーリプトラ」(パーリ語でサーリプッタとも)の漢字名。シャーリプトラはバラモン族の出とされており、バラモン教の根本聖典である「ヴェーダ」を学び伝統的な学芸全てに通じていたとされる。しかし、仏陀の弟子「アッサジ」の姿を見て仏教に帰依したといわれる。智恵第一と称せられた二大弟子の1人(もう1人は、目連(もくれん)で「神通第一」と称せられた)。仏は説法する際、聴衆の中から誰か1人を選んで語りかける。ここでシャーリプトラが語りかけられているのは間違いなさそうだが、では実際誰がシャーリプトラに語りかけているのだろうか。一般的に、お経は仏陀が説いたものとの形式、あるいは仏陀の代わりに説いた者を仏陀が称讃し、それが正しいことを仏陀が承認する形式を採る。般若心経は後者、即ち仏陀が舎利子に説き、観音さまはその説法の中で語られているとの場面が最も妥当と考えられる。仏陀が「空」と「般若波羅蜜多」について説くにあたり、まず観音さまの救済の行を例に挙げ、この語りかけ以降でその詳細について説いているのではなかろうか。
ここでは「色」と「空」との関係が述べられている。「色」とは、形あるもの、森羅万象の全てを指す。ただ、この部分はサンスクリット語の原本では「色性是空空性是色 色不異空空不異色 色即是空空即是色
」(法月:『普遍智蔵般若波羅蜜多心経』)となっている。つまり、この世において、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ物質的現象であり得る。実体はないがそれは物質的現象を離れておらず、物質的現象は実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。このように、物質的現象は全て実体がないことであり、実体がないということが物質的現象なのである。
(中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』)とのことである。
五蘊の色以外、精神作用についても身体と同様に空であり実体が無い。
ここで改めて舎利子について呼びかけがなされ、新たな問題に入ることを示している。
「諸法」の「法」は、サンスクリット語で「ダルマ」、パーリ語では「ダンマ」であり、多くの意味を持つ。一般的には教法・秩序・定め・法則・規範・真理・物・道徳・正義、習慣・習性・性質・真実・最高の実在などの意味を表す。ここでは、仏教独特の用法で「あらゆる存在や現象、事象」の意味で用いられ、「森羅万象」とも言い換えることができる。「相」は、一般的には「すがた」や「かたち」、「ありよう」の意味で用いられるが、ここでは「特徴」や「特質」との意味である(サンスクリット原本からの翻訳では「特性」)。つまり、「森羅万象には空という特性があり、」との意味となる。
森羅万象には空という特性があり、空との真実から見れば森羅万象は元々存在せず、即ち生ずることはなく滅っすることもない。
森羅万象には空という特性があり、空との真実から見れば森羅万象は全て絶対ではなく相互依存関係にあり、即ち浄も不浄もありえない。
森羅万象には空という特性があり、空との真実から見れば森羅万象は増えたり減ったりすることはない。増えたり減ったりとはある尺度の上でのみ判断される事柄で、例えば貯金が減った場合には何らかの物や経験が増えているかも知れない。空とは貯金や物を超越した概念であり、その概念の上では増えることも減ることも無い。
前段を受け、空との真実において様々な概念が「無」であることを説明していく。ここで「無」だとされているのは「色受想行識」「眼耳鼻舌身意」「色声香味触法」「眼界乃至意識界」という諸概念である。これらは、存在がどのようなあり方をしているのかを分析し、整理分類したものである。「色受想行識」は既に説明をした五蘊と呼ばれる整理方法であり、肉体と精神作用を指す。「眼耳鼻舌身意」は感覚器官や能力を指すものである。「眼耳鼻舌身」はそれぞれ視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感覚器官(五感能力)を指し、「意」は認識し思考する心を指す。器官を示す場合には、眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処の「六内処」、能力をさすときには、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根の「六根」と称する。「色声香味触法」は「六内処」もしくは「六根」の対象である外界からの刺激である。「六境」あるいは「六内処」に対して「六外処」といい、内外の六処と合わせて「十二処」と称する。
また、「眼界乃至意識界」は、「十二処」に眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の「六識」を加えた「十八界」という分類形式を指す。「六識」は、六境が六根によってそれぞれの認識にいたるときの認識作用あるいは認識主体を表す。つまり、主観である心(六識)が、それぞれの器官(六根)を通して客観の対象(六境)をとらえるという仕組みを細かく考えたのが「十八界」である。「界」とは、「人間存在の構成要素」との意味。「十八界」を全て並べると、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界となり、「十八界」の初めが、「眼界」、最後が「意識界」となる。
十八界 | 十二処 | 六根:意識する器官 | 眼 | 耳 | 鼻 | 舌 | 身 | 意 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
六境:認識する対象 | 色 | 声 | 香 | 味 | 触 | 法 | ||
六識:認識作用 | 眼識 | 耳識 | 鼻識 | 舌識 | 身識 | 意識 |
このように3種類の分類基準によって、森羅万象が整理されることとなる。仏教において、存在するものはそれ自体の性質で分類するのではなく、認識主体である我々がどのように知覚認識するかによって分類されるのである。従って、我々が認識しないものは存在しないということになるのである。
ここでないとされるのは「十二縁起」(「十二支縁起」「十二因縁」)であり、「無明」から始まり「老死」に至る経緯を十二の支分として表したものである。
一 | 無明 | むみょう | 「無明」の「明」は智慧のことであり、即ち無明は無知である。無知は、「仏教の教えを知らないこと」と解釈される。更に仏教では、我々の根本は無知であり、全ての欲望や煩悩の原動力が無知から来ると説く。 |
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二 | 行 | ぎょう | 無明によって生じるのが「行」である。五蘊の1つ「行蘊」との形でも説かれ、「意志作用」とされる。意志とは、行を為そうとする心の働きで、行為の原動力である。何を為すかではなく、何かを為そうとする状態、潜在的形成力と呼ばれる。 |
三 | 識 | しき | 行によって「識」が生ずる。「識→名→六処→触」は、我々の認識の形を示している。「識」自体は、心作用、認識作用とされる。 |
四 | 名色 | みょうしき | 識によって「名色」が生じる。名色とは、精神と肉体、名称と形態、認識対象とされる。 |
五 | 六処 | ろくしょ | 6つの感覚器官、眼、耳、鼻、舌、身、意。六入(ろくにゅう)とも。 |
六 | 触 | そく | 心が対象と接触すること。これにより「識」からなる認識のパターンが終了する。 |
七 | 受 | じゅ | 好き嫌いであるとか、美しい汚いであるなどの感受作用。 |
八 | 愛 | あい | ここでの「愛」は「渇愛」であり、愛欲や妄執など根本的な欲望を表す。 |
九 | 取 | しゅ | 根原的欲望が具体的な対象を得て執着となる。 |
十 | 有 | う | 生存。迷いの存在として生存するとの意味。 |
十一 | 生 | しょう | 生まれていること、生きること。ただ生まれる、生まれているのではなく、「有」として、つまり迷いの存在や輪廻の存在として生まれるということ。 |
十二 | 老死 | ろうし | 老いゆくこと、死ぬこと。愁・悲・苦・憂・悩を加える場合もある。これらを踏まえた「苦しみ」を「老死」と称する。 |
十二縁起は、我々が苦しみにいたる過程について述べたもので、釈迦が悟ったのがこの「縁起の理法」とされる。これらを順に並べ、無明に縁りて行あり(無明があるから行があり)、行に縁りて識あり、と続け、生に縁りて老死あると説く。これは「順観」と呼ばれ、十二縁起を無明を原因として老死という結果に至る過程とみることを指す。またこの場合の縁起を「流転(るてん)の縁起」と称する。逆に、老死は結果であり、その根本原因である無明を滅すれば老死も滅する。無明が滅尽すれば、行は滅尽する。行が滅尽すれば…生が滅尽すれば老死が滅尽する。このように、十二縁起を苦を滅する過程として見ることを逆観と呼び、「還滅(げんめつ)の縁起」と称する。「順観」からみれば「無明」から展開していく苦の人生の姿があり、「逆観」からみれば「無明」もなく「老死」もない悟りの世界がある。『般若心経』では、十二縁起に示されるような苦もなく、苦の滅することもないというのである。
四諦は、釈迦が鹿野園(ろくやおん)において5人の修行者たちにはじめて教えを説いた際(初転法輪:しょてんぽうりん))の内容といわれている。「諦」はサンスクリットの「サティア」であり、真理や真実を意味する(現代では諦めや断念の意味に使われることが多い)。つまり、4つの浄らかな真理というのが四諦の意味となる。
『般若心経』では、釈迦の教えの根幹ともいえる四諦八正道もないというのである。
「智」とは、仏教の教えを学習して知識として理解することであり、「得」とは身をもって教えを実践し体得することである。学び実践し、実践してまた学ぶ不断の努力精進が修行であり、悟りの境地とされる。『般若心経』は、それすらも「無い」と否定をする。それは、全てが「空」であるため、得る所が無いからである。固定されているものであれば、手に入れたものを所有することができるかも知れない。しかし「空」なる存在は常に変化し続けるため、手に入れるということができないのである。
菩提薩埵は既述の通り「菩薩」の正式な言い方。ただし、ここでは悟りを求める心を起こした者全てとの意味よりは、観自在菩薩をはじめとする偉大な菩薩全体像をイメージした方が文意に沿う。また、「深般若波羅蜜多」が「六波羅蜜」全体を指すことは既述だが、ここでは「深」がない「般若波羅蜜」になっていますため、六波羅蜜の「智慧波羅蜜」を指す。全てが「空」だと知り、知ることによって「空」なる生き方をせざるを得なくなったということが「智慧波羅蜜」すなわち「般若波羅蜜」と考えられる。「罣礙」はひっかかりや妨げ、障害を意味し、「顛倒」は逆向きの誤った考え、即ち是を非とし非を是とみなすことを意味する。仏教では、次の4つの「顛到」があると説く。
「夢想」は、これらの誤った考えを夢のように想い描くことを意味する。「遠離」は遠ざけることであり、「究竟」は到達することを意味する。「涅槃」は、俗語「ニッバーン」の音写語で、サンスクリット語では「ニルバーナ」、パーリ語では「ニッバーナ」という。「迷いの火を吹き消した状態」を意味し、悟りの境地、迷いの無い境地、心の安らぎの状態と理解できる。この部分は冒頭の「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」の意味に近いものがあるが、ここでは主語が観自在菩薩という特定の菩薩ではなく、菩薩一般に広げられ「深般若波羅蜜多」の「深」が落ちて単なる「般若波羅蜜多」となっている。
この部分は主語が「三世諸仏」となっているだけで、前の文章と意味はほとんど同じである。前の文章では「菩薩」が般若波羅蜜多によって涅槃を得ると説き、この部分は「三世諸仏」が悟りを得ると説いている。「三世の諸仏」とは、過去・現在・未来の諸仏を指す。仏といえば最初は「釈迦牟尼仏」ただ一仏であったが、時代が下がるにつれて多くの仏が説かれるようになり、阿弥陀仏、弥勒仏、薬師仏などもろもろの仏を指すものである。「阿耨多羅三藐三菩提」は、サンスクリット語の「アヌッタラー サミヤック サムボーディ」の音写語であり、「無上正等覚:この上ない正しいさとり」を意味する。
「咒」は「呪」とも書き、サンスクリット語では「マントラ」と呼ばれる。「真言」と訳し、解りやすく言えば「真実のことば」を指す。インド仏教の最終形態である密教では、特に仏や菩薩の力を示す秘密の言葉として重要視している。同じような意味を持つものに「陀羅尼」があり、サンスクリット語の「ダーラニー:心にとどめて忘れないこと」の音写語。マントラとダーラニーは真実そのものであり、意味を訳さずそのまま口で唱えれば真実と合一できると考えられた。また、「大神咒」は「大いなる神聖な真言」との意味。「大明咒」の「明咒」あるいは「明」は、サンスクリット語の「ヴィドヤー」のこと。知識や学問の意味で、ヴェーダ聖典や悟りの智慧・悟りを意味する場合もある。また、仏典では特に神通力や真言を意味する。「無上咒」は、文字通りこの上ない真言との意味、「無等等咒」は等しい真言に等しくないとの意味であり、「般若波羅蜜多」が無比の真言との意味である。「虚」は、中身のない、実がないとの意味で、「不虚」は絵空事や戯れ言ではなく、現実に影響を与える実質的な力があるとの意味。また、「大神呪」は声聞のマントラ、「大明呪」は縁覚のマントラ、「無上呪」は菩薩のとなえるマントラ、「無等等呪」は密教の真言に当たると弘法大師は説いている。
参考のために訳を上述しているが、真言や陀羅尼はそれそのままが真実であり、そのまま口ずさむものである。言葉自体に力があり、意味を訳さずそのまま読む必要がある。サンスクリット語では、【gate gate paragate para-samgate bodhi svaha】となる。
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